商品説明
■ストーリー
「黄昏時には森へ近づくな。」
父は、そうよく言っていた。
でも僕は時々、こうしてあてもなく森の近くを歩くことを止めなかった。山の麓にあり、地平線を見透かすことのできるこの場所に来ると、不思議と心が落ち着いた。……いや、正確には逆なのかもしれない。普段の自分の、自覚のある冷め切った心が、どこか落ち着かないような、理解できない高揚感で満たされていくような気がする。それが、森のせいなのか、それとも得体の知れない夕日の朱のせいなのかはわからない。どこかの子どもが忘れていった蛍光色の安っぽいゴムボールでさえ、宝石のように輝いて見えた。ボールを手に取り、何度か上に投げてみたが、すぐに飽きて僕は再び歩き始める。
杖を握る手に汗が滲む。家から遠く離れたこの場所に来ると、いつも身体の節々が痛む。
普通の人なら大したことのない距離だ。でも、自分でも覚えていない昔に事故で不自由になったこの足には、たった数キロのこの遠出が、一大決心をした子どもの家出のように、特別な、小旅行のようなものだった。朝や夜には、街へ働きに出る人達の多少の車も通るが、今は閑散としている。その道をぶらぶらと歩き、森の空気を思い切り胸に吸い込む。
-- その時だった。
「……これは?」
道に、転々と赤い液体が垂れている。血……だろうか? まだ乾ききっていない赤黒い液体が、夕日を浴びて妖しく光っている。
そして-- 獣の臭い。野生の獣の放つ生臭い気配が、息づかいと共に聞こえてくるほど、生々しかった。おそらくは、鬼-- “キ” と呼ばれる存在。霊、妖怪、そして角の生えているあらゆる鬼を、父はまとめてそう呼んでいる。幼い頃から、僕には見ることも、感じることもできなかった。にもかかわらず、直感的に、僕はこれがそうなのだと理解していた。
-- 黄昏時には森へ近づくな。
不運にも車に轢かれた、犬や猫という可能性もあった。が、理性とは別のなにかが、否定する。
自分でも理由を見いだせないまま、その血を辿るように、足が勝手に森へと向かっていくのを止められなかった。